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こんにちは、セガナ・クリエイティブ代表 長勢 覚史です。

「将棋脳」とは、クリエイティブ脳力のこと。

将棋とサッカーは似ているといわれる。将棋と野球は似ているともいわれる。
将棋は常に新しい局面を前にして、自分ひとりで考えなければなりません。形勢を判断し、決断する。
実行した結果、悪い手(手段)であれば負ける。いい手であれば勝つ。状況を判断し、いま自分が何をすべきか、
その手段が正しいのかどうかを考え、決断する力が必要です。昨年12月、故人になられた永世棋聖、
米長邦夫(よねなが くにお)棋士の言葉である。
「将棋脳」とは、将棋的思考のことで、人生でも、スポーツでも、クリエイティブでも同じ。将棋盤は人生であり、
ビジネス世界であり、宇宙空間でもある。
「自分にとっては消化試合だが相手にとって重要な対局であれば、相手を全力で負かす」という理念を持ち、
将棋界では「米長哲学(米長理論)」と呼ばれている。
著書『米長の勝負術』の中で、トーナメントなどの例外を除き、
その対局の結果が第三者に影響を及ぼす勝負の場合、自身の勝負に勝とうが負けようが第三者の悲喜の総量は変わらないが、
それが故に結局は自身が全力を尽くしたかどうかだけが残り、手を抜いてしまっては純粋に、自身にとってマイナスである。

実力と運(勝機)は表裏一体。
雑誌コラム「人生、次の一手」で取り上げた主題「人生は良くて5年、悪くて5年」の中で、
自分の仕事、収入、年金に対して不安を持っている若者が8割にのぼる____。(政府「子ども・若者白書」2012年版)
十分な収入が得られるか不安82.9%、老後の年金はどうなるか不安81.5%、ちゃんと仕事ができるか不安80.7%。
これからクリエイターを目指す諸君やすでにクリエイターとして仕事をしている私たちも同様に悩み、不安を持っていると
思う。日々の仕事に邁進し、自分自身から逃げずに戦うこと。それが実力、実力は運(勝機)を呼び込む。

故米長邦夫(よねなが くにお)棋士は、独特の観察力、洞察力で政治、経済、世相、男女関係までバッサリと切り取り
米長流の抜群のユーモアセンスと自然な語り口で時勢を解説してくれる。時代を見抜く力をもっていた。
例えば、3人の兄は東京大学に進んだ。「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」
という言葉はあまりにも有名である。

一時、株取引に熱中していたことがある。
「生活のことを考えたら、将棋が弱くなる。他に収入があれば純粋に将棋が指せる」という考えのもとに、
『米長流株に勝つ極意』という本を出すほどだった。
しかし、電話1本で株の売買をするだけでお金が儲かるということに自ら疑念を抱き、株取引を止めてしまう。

ニッポン放送で「米長邦雄のさわやかイロザンゲ」というタイトルのエッセイを週1回発表。
モテる秘訣、自身の過去についての赤裸々な告白、読者からの人生相談などであった。例えば、『させてくれ』と女に
お願いしているうちは半人前である」「鍛練して『してください』と頼まれるようにならなければいけない。
なおかつ、そのお願いに充分に応えられなくてはならない」と述べている。

2004年(平成16年)7月2日に「徹子の部屋」に出演。
妻に対する懺悔として、相当のお金をかけて墓を購入したというエピソードを紹介。
そのとき妻に言った一言は(実話か否かは不明であるが)「お前の人生は、はかない人生ではない。
これからは墓ある人生だ。」であったという。

米長将棋連盟会長がコンピューターに敗北
「米長邦雄永世棋聖vsボンクラーズ プロ棋士対コンピュータ将棋電王戦」と称してコンピュータ将棋ソフトと
2012年(平成24年)1月14日に対戦。このボンクラーズとの対局で、プレマッチに引き続き奇策、
先手7六歩に対し後手6二玉を採用したものの、後手の米長が113手で敗れた。
また、

自著『われ敗れたり』は、第24回将棋ペンクラブ大賞(文芸部門)を受賞。

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米長邦雄

1943年(昭和18年)6月10日 生まれ。2012年(平成24年)12月18日没。
山梨県南巨摩郡増穂町(現・富士川町)出身。中野区立第八中学校、東京都立鷺宮高等学校卒業。
中央大学経済学部4年次3月(年度末)退学。2003年(平成15年)12月、引退。
日本将棋連盟会長(2005年(平成17年) – 2012年(平成24年))。
タイトル獲得数19、歴代5位。永世棋聖の称号を保持し、引退前から名乗る。佐瀬勇次名誉九段門下。
棋士番号は85。趣味は囲碁で囲碁八段。
2003年(平成15年)11月、紫綬褒章受章。2013年(平成25年)1月、旭日小綬章受章(没後叙勲)。
北陸先端科学技術大学院大学特任教授[4](2011年(平成23年)10月1日 – 2012年(平成24年)9月30日[5])。
日本財団評議員(2011年(平成23年)4月 – 2012年(平成24年)12月)[6]。
財団法人JKA評議員(任期満了予定は2013年(平成25年)3月31日 [7])。日本テレビ番組審議会委員。
ニッポン放送番組審議会委員。東京都教育委員(1999年(平成11年)12月 – 2007年(平成19年)12月)などを歴任。
2009年(平成21年)1月9日に前立腺癌で放射線治療を受けていると発表し、自身のホームページに
「癌ノート」詳細を連載した。2012年(平成24年)12月18日、東京女子医科大学病院でこの世を去った。
戒名は、棋聖院純実日邦居士(きせいいんじゅんじつにっぽうこじ)。自他共に認める性豪として知られるだけに、
前立腺癌を宣告された後、全摘手術を躊躇したことが結果として転移に繋がった。
その心の機微が著書「癌ノート~米長流 前立腺癌への最善手~」に記されている。

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